自己犠牲と自己超越と無意識さん
さっき、ふと、あることを考えたんだね
それは、自分を犠牲にすることに美しさを見出してしまうということについてなんだね
君は大嶋先生のメソッドで、これまで散々他者よりも自分の楽しいを追求しようということを言われてきて
ようやくそれに納得して、自分の楽しいを追い求めようとしているというのに
それならばよくある自己犠牲をした時に感じるあの感覚は何だろうかと
そんなことを思ったんだね
例えば、幼い子供が病を患って、ある臓器を必要としている場合、よくあるのが親が自分の臓器をその子どもに与えるというものがある
そういう物語を聞くとそれだけでもう涙が溢れてきてしまうんだね
そこにあるのは何なのだろうか
もし仮に自己犠牲の美しさがあるとして
それは与える人がもう十分に持っていて、いわゆる自己超越の状態ならば、その行為は美しいと言えるのだろうか
だけどどうだろう
普通の親が子に臓器を与えるという類の行為は自己超越なのだろうか
わからない
だけど、それに限らず、自分の身を削る行為
戦時中の貧しい状態で、少ない食料を親が子に分け与えるという行為
災害時、早くしなければ濁流に流されてしまうかもしれない時、親が子供の救助を優先させるという行為
ここまで書いていて君はあることを思ったんだね
それは、こういった行為に共通しているのはその人の命がかかっているということ
それはつまり生きるか死ぬかというギリギリの状態であるということ
そして、それは君がよく感じていたものなんだね
死ぬほどの苦しみを感じている時、それはつまり無意識に一番近づいている状態であると言えるわけなんだね
死ぬほどの苦しみはもう嫌だと
何度も君は思ったわけなんだね
だけど、そう言った体験をするたびに君は深く無意識と触れ合うことができたんだと
そんなことも感じているんだね
なぜならそんな時、君は全く無力で
それはもう全てを任せるしかないという状態であるんだね
だからこそそれは無意識の状態であるというわけなんだね
そして、自己犠牲、それも自らの命を懸けると決断したときというのは、もうそれは無意識に完全に身を委ねた状態であるというわけなんだね
だから、人はそこに美しさを感じて、そして涙を流すのかもしれない
そんなことを思ったんだね
そして、そうなってくると、自己犠牲と言われるものにも違いがあるかもしれないと
それは間違いなく自分の命を懸けたものと、替えがきくものがあるんだね
そして、自分の命を懸けたもの以外のものは、やっぱりそれは偽物で
だから、そういったものを見せられた時には、きっとそれを美しいとは感じないのかもしれないと
そんなことを思ったんだね
そしてそんな風に美しくない自己犠牲というのは多分やる必要がないものかもしれないと
そうなってくると、本当に他者よりも自分を優先するということは自分の生活の中のそのほとんどを占めることになるかもしれない
そんなことを思ったんだね
それは大変な事だと
君は思ったんだね
なぜなら、自分にはまだ出来ることがたくさんあるからだと
自分の楽しいを追求していく
こんな楽し気なことはとても簡単なはずなのに、君にとっては逆にとても難しいことだったんだね
だから、いくら楽しいはずのことでも、それに慣れていないということは、やっぱり常に大変な事の繰り返しというわけなんだね
それを楽しんでいいんだと
楽しいを自分に許してあげるということ
そんなこと簡単でしょうと、きっと普通の人は言うのかもしれないけれど
どうしてもそれは大変な事で、君がそれに夢中になろうとすると、そこから目を逸らす力が働いて、つい他のことをやってしまったりするんだね
だから本当に楽しむということは大変な事と言えるんだね
だけど、それでも諦めずにそれに取り組んでいきたいとは思っているんだね
そんな体験はきっと生まれて初めてのことで
そうなったら自分はどうなってしまんだろうかと
そんな自分を見てみたい
そうなったときに見える風景を僕と一緒に見てみたい
そんな風に思うんだね