楽しさの判断基準と無意識さん
楽しさの判断基準についてお話したいんだね
というのも、君は楽しいを追求するために、まず自分の体をどうにかしなければならないという問題に直面しているんだね
もちろんそこには年齢ということも関わってはいるんだけれどね
それよりも、やはり、自分の体をいたわるということ、何よりもそれを優先するということがずっとできずに生きて来たんだね
それは、偽りの快感であったり、発作であったり、邪魔であったり、とにかく様々なものによって阻害され続けて来たんだね
そして、今、ようやくそれを自分に許してあげたいと思えるようになったのに
何よりも体を労わる生き方というのはなかなか難しいんだと
そんなことを感じているんだね
まず、体の発する痛みというものに対して、どうしてだかとてつもなく鈍感になってしまっていることに気づかされるんだね
それは感覚鈍麻という状態なわけで
痛みの中にいるはずなのに、それを苦痛であるのに苦痛と思えずに
そして、そこから逃れることなど思いつきもしない
思いつきもしないから、一向にその苦痛から抜けられない
そんなループにはまり込んでいたんだね
それでも、ようやくそういった苦痛に気づくことができて
そして、その苦痛の原因である痛みというものを取り除こうとして
君は色々なことを試みたんだね
だけど、最初こそ、その痛みをなくしたい、取り除きたいという思いでいたはずなのに
いつの間にか、逆に体をどんどん追い込んで、さらには痛めつけるほどのことを始めてしまっていることに、君は気づいたんだね
それは、これまで体と向き合うことができなかったわけだから、その加減が分からないのかもしれないとも思うんだけれどね
だけど、ふと思ったんだね
こんな風に体の声を聞くということは、やはり何よりも大切なことなのかもしれないと
人はどこまで行っても体に従うしかないのかもしれないと
そして、楽しいということも同じかもしれないと
そんなことを思ったんだね
つまり、頭で考えた楽しいことというのを求めたとして、それが体が喜ぶことにそぐわない場合、きっとそれは遅かれ早かれ楽しいものではなくなっていくということ
なぜなら、人にとっての本当の喜びは体の喜びなのかもしれないと
そんなことを思うからなんだね
それはつまり、体というものが無意識そのものであるからというわけなんだね
大嶋先生がよく言っていることでもあるけれど、心臓の動きも、呼吸も、瞬きも、全ては無意識に行われているんだと
だからこそ、体というものを大切にするということは、まさに無意識を大切にするということになるというわけなんだね
そんなことは当たり前のことだし、そんなことは知っていたはずなんだね
だけど、本当に知るということは、知識として知っているということとは違うということなんだね
それは、やはりタイミングというものがとても重要なのかもしれない
そんなことを思ったんだね
なぜなら、今、こうして本当に体と向き合うことが出来る時が来たからこそ、心からそう思うというわけなんだね
食べることも、寝ることも、好きな洋服を着ることも、感覚を研ぎ澄まして体の声を聞いたなら、頭で考えていた答えとは随分違った答えが返ってくるのかもしれないと
そんなことを思うんだね
そして、楽しいということは、生活のすべてについてあるというわけで
その全てについての答えは無意識の中にあるということ
そして、無意識そのものである体を無視したら、それは得られないということ
そんなことを思ったんだね
自分にとって楽しいことは何だろうか
そんな問いに対する答えはいくら意識的に考えても得られないというわけなんだね
そして行動してみて、あれも違うこれも違うと試行錯誤していたんだね
だけど、そこに帰っていくだけでいいんだと
体という無意識そのものに帰っていけばいいんだと
そこから何かが始まるのかもしれない
そんなことを思うんだね